彼らの文字に目を通して読むにしても、
その功徳力が心に根付きます。
“阿弥陀经有蕅益大师所著要解,
理事各臻其极。
为自佛说此经来第一注解,
妙极确极。
纵令古佛再出于世,
重注此经,
亦不能高出其上矣。”
——印光大师
蕅益大师(公元1599—1655年),明末四大高僧(紫柏、憨山、莲池、蕅益)之一。名智旭,号西有,别号八不道人(自云:古者有儒有禅有律有教,道人既蹴然不敢;今亦有儒有禅有律有教,道人又艴然不屑。故名八不也)。
印光法师云:“第一弥陀要解,乃大师自注,文渊深而易知,理圆顿而唯心。妙无以加,宜常研阅。” 又云:“而弥陀要解一书,为蕅益最精最妙之注。自佛说此经以来之注,当推第一。即令古佛再出于世,现广长舌相,重注此经,当亦不能超出其上。”
蕅益大师的曾经作过《弥陀要解》,印光大师对蕅益大师的这个注解有如此高的盛赞。所以当我们读他写的《灵峰宗论》,还有莲池大师的《竹窗随笔》,如果有善根,都会有这种同感。
我在家学佛的时候,朱乃洪老居士除了教我《印光大师文钞》、《观经四帖疏》,也推荐我看见月律师的《一梦漫言》。这种传承很重要,他对这本书他很有感情,当他交给我的时候就非常地殷切。从他的表情,他不仅仅是交给我一本书,他也是把他读这种殷切,在他的生命当中传递给我。
このような伝承はとても大切だと思います。朱乃洪居士は『一夢漫言』にとても親しみを抱いています。彼がこの本を渡してくれる時に切なる期待は感じられました。彼の表情からすると、彼が渡してくれたのは一冊の本だけでなく、彼がこの本を読んだあとのその切実な願いも、彼の生命を通して伝えてくれました。
我现在回想起来,还能想起他捧着这本书,很多很多的意思都包含在他的这一份殷切中。然后很郑重地把这本书交给我并叮嘱“你好好地看。”所以当我白天晚上看的时候,确确实实就不能释手,以读尽为期,停不下来。这有一本《一梦漫言》像一个整体的金刚体一样。所以学佛起步正很重要的。
我们读祖师的这些文字,比如莲池大师的《竹窗随笔》,虽然一个小题目配上简短的文字,但是它的核心却很突出。里面每一篇都是非常精致的成品。你每读一小篇、每读一小段,就有一种功德力根植于你的心中。
たとえば、蓮池大師が書かれた『竹窓のエッセー』を一文だけ読んでも、小さな一段落だけを読んでも、ある功徳力はあなたの心に根付くようになります。
我们蕅益大师的《灵峰宗论》也一样,你是没有办法增一字或减一字,意味特别地深长。这种气涌回荡在我们的心胸,不仅仅是你没办法增减,它而且非常地真挚。
你能读到他作为修行人很浓的一种情感,一种对父母的孝心,一种对佛法、对三宝的惭愧;又能够读到他自己那种发奋,要誓报父母恩、誓度众生大勇猛的一种力量。所以佛弟子读他的文章,就是可以得到超越时空的一种加被。
その著作から修行者としての濃い感情、父母への親孝行の孝心、仏法や三宝さんぼう(仏、法、僧)に対する後ろめたさが感じられ、そして、また彼自身の発奮はっぷんする心、父母の恩を報いると誓う心、衆生をどうしても済度さいどすると誓っている勇猛心ゆうもうしんの力も感じさせられています。ですから、仏弟子ぶつでしは彼の著作を読んだら、時空を超越した加持を得られます。
读蕅益大师的文字就是这个感觉:一种生命在那里闪着光、发着热。虽然他的肉体生命有可能不是很大,但是作为智慧的生命,这样的文字确实超越时空的,也是划过黑暗的光明,直触我们每一位的心灵。
蕅益大師の著作の文字を読むとこのような感じになります。ある生命はそこで輝いて、熱い熱を発しているようです。
所以他的生命、他的对父母的这种大孝之心、对三宝的崇敬之心、对自己修行的要求、对众生的、甚至对佛法住世的这份心,在《灵峰宗论》的篇篇文章里都可以看到这些。
ですから、彼の命、彼が両親に対する大きな孝心、三宝さんぼうを崇敬すうけいする心、自分の修行に対する要求、衆生に対する心、乃至仏法がこの世界に常住じょうじゅうする願いの心は、『霊峰宗論』のどの章にも見られます。
日语翻译:圆明老师