佛说一切如梦幻泡影
你说一切都刻骨铭心
佛不舍昼夜“润物细无声”
我们如聋似哑“身在福中不知福”
仏陀はすべてが夢、幻、泡、影のように儚くて過ぎ去るものだと仰いました。
しかしながら、あなたはすべてが心に深く刻まれると言います。
仏陀は昼夜を問わず、まるで細やかなの春の雨のように物静かに万物を潤しています。
私たちは聾唖ろうあのように「身が福の中に染みているが全く鈍感で気がついていません。
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日夜不舍地陪伴,想方设法地找一些事、设一些平台,训练我们的身,训练我们的口,训练我们的意,手把手地带领我们成长。对于人类文明的进步和个体生命的成长,佛法进行着的是这样巨大而普遍的努力。但这样一种应该是显见的甚至是可歌可泣的现象,世间很多人却并不知道。
受着佛菩萨的恩,众生依然做着自己的梦。
成長を助成するできる因縁をつけてくれます。たとえば、雑用を見つけ出して言い付けてくれたり、仕事ができるチャンスを作り出してくれたりすることによって、私たちの身(行い)、口(言葉)、意(精神)を鍛えさせ、手を取るように私たちの成長を導いてくれます。人類文明の進歩と個々の生命的成長に対して、仏法はこのようにすべてに広く行き渡って巨大な努力を続けています。しかし、このような明白な振る舞い、さらには称賛や感動に値する悲壮な事跡と行為が、世間の多くの人々には知られていません。仏様、菩薩の恵みを受けていながらも、衆生は依然として自分の夢を見ています。
不仅不知道,很多人还会将“佛弟子”另划一群,对立看待。“他们是佛教徒”,这样一顶帽子使原本神圣的行为有了莫名的沉重。实际上学佛是一种理性的选择,促使我们走进佛门的是对于生命未知的困惑。如果一群人因为求知而成为另类,这样的观念不是太奇怪了吗?
事实上,如果一定要按照现代人能够理解和接受的方式来定义的话,佛教就是一门生命科学。
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これは私の一生で皆さんに贈る
最高のプレゼントです。
我当初之所以选择走出来与大家结缘,也是想到,如果我的一生可以送给众生一份礼物的话,最好的礼物就是佛法。
把佛法当礼物送给大家,最幸运的其实是我——你们学佛所得的感受对我来说就是一种加持。我们在座的出家人也好,或者跟着我一起学佛多年的居士也好,大家自己清楚地知道,这条路没有走错,我们越走越光明、越走越幸福。
我们之间能够结缘,是因为我是凡夫,你们能看得到我。等缘分结上后,就像在放生时观想把众生供养给佛一样,我也是尽我所能把你们都供养到佛面前,让你们能与佛建立因缘,能品尝到走上这条修行路后生命所发生的改变。
这么多年,我想我的尝试和努力还是有一些作用的。大家的虔诚与恭敬时常令我感动,哪怕是第一次见面,举止神情间都展现着极大的真诚。为什么会这样?说明对于佛法,在我唠唠叨叨的介绍下,大家确实得到受用了。
由佛法而产生的这种真诚的情感在社会上是很少有的。生活中你想赢得别人发自内心的尊重,家庭里爸爸妈妈想获得子女发自肺腑的感恩,这都是很奢侈的事。
但是,也不得不说,当我们在展露这种极其稀有的,比黄金、钻石还宝贵的虔诚时,也要看时间、地点、因缘。前面也说了,直到今日,误解出家人、误解佛教的人在这个世间依然占了多数。本来佛教显现世间是为了破除隔阂,如果因为我们的不谨慎而造成了更深的误会,这是有罪过的。
磕头、礼拜乃至感动到泪流满面,在佛弟子眼中,这是很正常的行为和现象,但在不同立场的人看来,这就是奇怪的、无法理解的。我也碰到过很多人,他对佛教也有信心,但就是拖拖拉拉不肯皈依,我就点化他,我说你是不是怕磕头啊?他就笑了。我说,不磕头也行的,如果你愿意,我给你磕头好了。
这不是一句玩笑话,你有佛性,这就是成佛的资本,所以你对我磕头,或者我对你磕头,目的都是一样的,就是为了解脱,为了成佛。常不轻菩萨遇到谁都磕头,一边磕头一边说,我不敢轻慢汝等,汝等皆当作佛。
我们在五浊恶世人寿百岁之时,能遇到佛法,你都不知道这有多么奢侈。上一尊佛的时代人寿是两万岁,下一尊佛的时代人寿是八万四千岁。所以,大家要坚持住,好好学,你能抱着佛法不放手,到最后就会知道你抱着的是一棵救命的大树!
“公修公得,婆修婆得”,
这就是佛教的科学性。
对于佛法,
现代科学没有能力证明它的正确,
同样也没有办法证明它的不正确。
不能证真,也不能证伪,
就没有权力作出否定。
这才是科学的态度。
佛教是科学的,科学是具可重复性的,
这也是我这么多年
带着大家一路向前的
一种信心的基础。
我相信佛法,相信佛陀,
相信大家只要努力就能得到受用,
相信你终有一天
会知道是谁在做梦,
谁又在施福。
日本語バージョン
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これは私の一生で皆さんに贈る最高のプレゼントです。
世の中の人々は知らないだけでなく、多くの人々は「仏教徒」を別個のグループとして扱い、対立的に見ています。「彼らは仏教徒だ」と言って、本来神聖な行為が妙に重たい帽子を被せられています。実は、仏教を学ぶことは合理的な選択であり、私たちが仏教に足を踏み入れるのは、生命の未知に対する困惑だからです。真理や知識を求める人々が風変わりだと視されるとい考え方は、あまりにも奇妙ではありませんか?
実は、もしどうしても現代人に理解され、受け入れられる方法で定義する必要があるとすれば、仏教は生命科学そのものです。私が当初、皆さんと縁を結ぶために大衆の前に歩み出すことにしたのは、もし私の人生で衆生に贈ることができるプレゼントが一つあるとすれば、最高の贈り物が仏法だと思ったからです。
仏法をプレゼントとして皆さんに贈ることは、実は最も幸せなのが私です。皆さんが仏法を学ぶことによって得た体得は私にとって加持です。いまご列席されている出家の僧侶の方々にしても、或いは私のもとについてきて一緒に長年も仏法を学んできた在家信者たちにしても、皆さんはこの道が間違っていないことをはっきりわかっています。私たちはますます明るい方向に進み、歩めば歩むほど幸せになります。
私たちがご縁を結べる理由は、私が凡人であり、皆さんが私を見ることができるからです。ご縁が結ばれた後、まるで放生(ほうじょう、捕らえたい生き物を逃がしてやる)の時に生き物を仏様に捧げることをイメージするように、私はできる限り皆さんを仏様の前に捧げ、皆さんが仏様と因縁を結べるようにし、この修行の道を歩むことで生命がどのように変化したかを味わってもらえるようにします。
長年にわたって、私の試みと努力はやはりいくつかの効果があったと思います。皆さんの敬虔と恭しさにはいつも感動されます。たとえ初対面であっても、仕草や表情から極めての真摯さを見せてくれました。なぜこのようなのでしょうか?それは皆さんが仏法に対して、私のくどい紹介や説明を通じて、実際に恩恵を受けているからだと言えるでしょう。
仏法によって生じるこのような真摯な情感は社会では極めて希少です。日常生活の中で他人から心よりの尊重を得たいことにしても、家族の中では両親が子供から心の奥底よりの感謝を得たいことにしても、とても贅沢なものです。
しかし、それと同時に言わざるを得ないことがあります。私たちがこのような極めて希少で、黄金やダイヤモンドよりも貴重な敬虔さを表す時に、時間、場所、因縁を見分けなければなりません。前にも述べたように、世の中に今日まで出家の方々や仏教を誤解する人々がやはり大多数を占めています。本来仏教はわだかまり(隔たり)を取り除くために世の中に出現しているので、もし私たちの不注意でもっと深い誤解を招いてしまったら、それは過失があります。
叩頭したり、礼拝したり、さらには感動して涙を流して止まらなかったりすることは、仏教徒の目にはこれはごく普通の行為と現象ですが、異なる立場の人々にしたら、これは奇妙で理解できないものです。私も多くの人に出会い、彼らは仏教にも信念を持っていますが、入門の帰依のことを先に延ばして躊躇しています。そして、私は彼らを啓発し、叩頭するのを怖がるのですかと聞いたり、彼らは笑いました。私は、叩頭しなくてもいいですよと返事しました。もしあなたが望むなら、私があなたに叩頭してもいいですよ。
これは冗談ではなく、あなたには仏性が具わっているからです。。これは成仏の資本です。だから、あなたは私に叩頭しても、或いは私はあなたに叩頭しても目的は同じです。それは解脱と成仏のためです。常不軽菩薩は誰に会っても叩頭しています。しかも、叩頭しながら、こう話しています。「私はあなたたちを軽視したり、侮ったりすることはできません。あなたたちは皆仏様になるからです」と。
私たちは五濁悪世ごじょくあくせで人生が百歳の寿命を生きる時期に、仏法に出会えることがどれほど贅沢なことか、あなたは知りません。前の仏様の時代には人間の寿命が二万歳でしたが、次の仏様の時代には人間の寿命が八万四千歳になります。だから、皆さんは粘り強く、しっかり学び、仏法を手放さないでください。最後にあなたが抱いているのは命を救う大きな大木だと知ることになります。
「夫は修行を積めば、夫がその成果を得る、妻は修行を積めば、妻がその成果を得る」という。これこそが仏教の科学性です。仏法に対して、現代科学はそれが正しいということを証明する能力がなく、同時にそれが正しくないということを証明する方法もありません。真偽を証明できないので、否定の判断を下す権利もなくなります。これが科学的な態度です。
仏教は科学的であり、科学は再現性があることから、これは私が長年も皆さんを導いて、共に前進していく信心の基礎を固めてくれます。私は仏法を信じ、仏陀を信じ、皆さんが努力さえすれば有益になれると信じています。いつかきっと誰が夢を見ているか、誰が恵みを与えているかを知りぬく日が訪れると信じています。
日语翻译:圆明老师
日语朗诵:妙叶
THE END