修行不能急的

2025-02-26 09:00:00 发布: 人气:7

修行不能急的

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修行は急いではならない

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修行は急いではならない

平常心是道。

修行不能急的,也不能外求,

外求叫“头上安头”。

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- 三参法师 -

Namo Buddha

Namo Dharma

Namo Sangha



我们虽口里念着佛、心里想着佛,但真正的佛要靠“心”才能感通。只有自己的心平静下来,佛才会现出来,“众生心垢净,菩提影现中”。四弘誓愿,从事相的“众生无边誓愿度”,到理体、究竟的“自性众生誓愿度”,佛道也是这样“自性佛道誓愿成”,所以,“心”要保持着清明、宁静、祥和。


我们这个“心”是有很多层次的。


在第六意识上,我们要合理地保持着人天乘;通过持戒、诵咒、入定才能涉及到第七意识;开悟之后才能悟到第八意识。


解脱是靠对三宝的信心,而不是自己修得有多么厉害;如果着相、有好胜之心“我要快点成道”,说明没有降伏自己的心,这样反而偏离了佛教的修行,正如文殊菩萨所言: 当执着生起,正见已丧失。


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净土宗六祖永明延寿大师曾言:“入定则一尘不染,出定则万善并行。”出定了,第六意识的状态,人天增上的心灵状态还是需要的,还要好好遵循、践行人天这个所谓好的准则,遵守社会秩序;若周遭的人对学佛不太理解的话,还要以有相的为主,要照顾到大家的感受。


当你入定的时候,超越了第六意识,乃至能缘于第七意识破我执;不要说人、天没有了,“佛之一字,我不喜闻,自性无名,心佛众生,皆是假名。”从这个意义上说,任何心上的执着,都是让你见不到佛的,恰如广钦老和尚所言:留恋娑婆一根草,极乐世界去不了。


按照物理学上的虫洞理论,“虫洞”是宇宙中的隧道,可超越时空,是无量光无量寿,你怎样进入虫洞?靠心,这个“心”若有一点障碍则进入不了。


所以,要慢慢训练。这世上的一切,你既生活其间又要看破、超越,否则没有这种警觉,当下被迷惑,内心还被缠缚。


生命就是这样一种虚幻的种子,会不停地再制造下一个。这个业力就永远在你的脑子里脱不开,“五蕴”色受想行识,万缘牵扯,所以就连续在三界六道内流浪,经验痛苦。


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如何改变这种现况?

简言之,就是改变我们“心”的立场,或说是习惯思维的方向: 一个是向外看,一个是向内看;凡是“内观”,方向改变一下,这看起来是小事一桩,结果却迥然不同,甚或还有可能具有改变世界的力量。


一个内省的人,就是觉者 —— 是一个从内而非从外寻找真理的人。佛教的一切教法和训练,都是为了达至一个目标:往内看心性,帮助我们体悟生命的真相,从而找到那个不生不灭。


当我们遇到境界时,里面有没有我见、我执?

就像面对镜子,“汉来汉现,胡来胡现”,你有真修就能无我见;反之,你当真,是因为你执着自己是真的,“我是真的,众生是真的,业力是真的”,就是我执。这是没有正知正见。


要时时调整“我”作为人的悲悯心,同时还要有空性,空性才是通佛国的,有我见、人见、众生见,就会对立;在面对境界时,马上就用佛法来超度自己。外在都是考验,考验你修行到底是真是假。


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了解如来真实义是很重要的。

以前“迷”在境界里;现在境界来了,马上回光返照。

这就是阿弥陀佛,无量光无量寿。我们每个人的觉性,就是无量光无量寿。往生极乐世界,阿弥陀佛来接引,就靠这个。


阿弥陀佛就是按照这个修,圆满了,再发愿度众生,让我们也圆满;然后我们这个“因地心”“入”佛之果地心,就靠这个往生,这个“觉”若迷掉了,阿弥陀佛也救不到你。


既要自净其意,还要求愿往生佛陀的愿海果地。


我们的因地“心”是很脆弱的!


佛是功德圆满,福慧两足;我们还业障如山,《地藏经》云:“业力甚大,能敌须弥,能深巨海,能障圣道”,若有形象,尽虚空亦不能纳受。


所以,一定要牢牢记得自己的心,同时又要知道佛跟我们的心毫厘不隔,那佛圆满果地的心就会印在你的心里,心心交融,这样就会与佛相应。


或说是要把我们生命、人格当中好的发展起来,达至极致也就成佛了。


修行就是这样: 由一滴水,渐渐,汇聚成小溪,我们的善根渐成小溪,你如是清净守护,渐变为大溪、大江、大河,直至汇入无际的蓝色法性大海,这样就跟佛见面了。

那时,你也可像祖师一样了。


沩山灵祐禅师曾说:老僧五百年后,到山下人家,作一头水牯牛。

有的祖师说:“哦,下一世我到鬼道去。”

地藏菩萨:“地狱不空,誓不成佛。我到地狱去。”


请问:这个靠什么?

行菩萨道,作众生的不请之友,要靠雄厚的积累,厚积薄发。

这些都来自我们当下的分分秒秒、点点滴滴的修行积累。这个“因”不要错掉,我们当下的“觉”,此心是能成佛的。


而在没成佛之前,就是果地的佛来救我们,否则没有佛菩萨来救,我们连佛教的一个字也不知不闻。


你所有点点滴滴的觉悟都来自于佛菩萨的慈悲展现,我们所有的修行,不要离开果地的佛。若离开了,就会傲慢狂妄,就会着魔,又偏掉了。

这个工作没有人可以替代,只有你自己去修,“如人饮水,冷暖自知”。所以,自己要好好把握,念念守护住。







阿弥陀佛

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修行

は急いではならない



日本語バージョン——







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平常心が「道」(どう)です。修行は急いではならないし、外にも求めてはいけないんです。外に求めることを「頭に頭を載せる」と呼ばれるものです。(注:「頭に頭を載せる」は禅仏教用語で、もともと存在するものなのに、外でそれを探したり、付け足したりすることを意味しています。これは無駄な行為や蛇足を表します。例えば、本来、自分自身の内に仏性があるのに、外に仏を求め歩き回ることも、「頭に頭を載せる」行為です。)


私たちは口では仏を唱え、心では仏を考えていますが、しかし本物の仏は「心」を通じてしか感通できません。自分の心が平静になってはじめて、仏が現れてくるのです。「衆生の心の垢が净められると、菩提の影が現れる」というものです。四弘誓願(しぐぜいがん

仏語。すべての仏・菩薩(ぼさつ)が起こす四つの誓願。限りなく多くの衆生(しゅじょう)を済度(さいど)しようという衆生無辺誓願度、計り知れない煩悩(ぼんのう)を滅しようという煩悩無量誓願断、尽きることのないほど広大な法の教えを学びとろうという法門無尽誓願学、無上の悟りに達したいという仏道無上誓願成)も、事相(じそう、実践的な面)の「衆生無辺誓願度」から、理体(本体のこと)・究竟(くきょう、終極)の「自性衆生誓願度、じしょうしゅじょうせいがんど」までに至り、仏道も「自性仏道誓願成、じしょうぶつどうせいがんど」です。だから、「心」はいつも清明で、穏やかで、和やかな状態を保たなければなりません。

私たちの「心」は複数の面があります。


第六意識(仏教の意識作用(識, viññāṇa)の8種をいう。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識、阿頼耶識。だいろくいしき、仏語。唯識学派で立てる八識の6番目、意識のこと。前五識が感覚知であるのに対し、分別判断の働き。)においては、人天乗(にんでんじょう、人間界の人と、天上界の神)を適切に保つ必要があります。戒律を守り、呪文(じゅもん)を唱え、禅定に入ることで、第七意識に触れることができます。悟りを開くことで、第八意識に至ることができます。


解脱は、三宝に対する信心(しんじん、信仰する心)に頼るものです。自分でどれだけ修行を積んだかではなく、相に執着し、「早く成道したい」という勝ち気な心があれば、心を調伏(ちょうぶく、心身を整える、悪行を制する)していないことを意味し、仏教の修行から外れてしまいます。文殊菩薩もこう仰っています。「執着が生じるとき、正見(しょうけん正しく真実を見ること)はすでに失われている」と。


浄土宗六代目祖師である永明延寿大師はこう仰いました。「禅定に入ると、塵一つとして染まない。禅定から出ると、あらゆる善行を並行する」。禅定から出た後は、第六意識の状態、人間界の人と天上界の神としての心の状態をもっと良くして増上(ぞうじょう、強化する)させていくことも必要です。依然として人間社会と天上界の良い準則を遵守(じゅんしゅ)したり、社会秩序を守ったりする必要がありますし、周りの人が仏法を学ぶことを理解していない場合は、やはり彼らが感じられ、見える形を主にし、皆の気持ちを配慮する必要があります。


もし禅定に入って、第六意識を超越し、さらに第七意識にまで達し、我執を破ることができましたら、人間界や天上界がなくなるどころか、「仏」という言葉すら聞きたくありません。「自性(じしょう)は無名で、心、仏、衆生はすべて仮につけられた名である」という意味で、心に執着があれば、仏を見ることはできません。広欽老和尚が仰った通りに、「娑婆にある草一本だけの名残を惜むにしても、極楽世界には行けない」


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物理学のワームホール理論(wormhole)によれば、「ワームホール」は宇宙の中にあるトンネルで、時空を超越することができ、無量光無量寿です。どのようにしてワームホールに入ることができるのでしょうか。それは心に頼ります。この「心」に少しでも障害があれば、入ることはできません。


だから、少しずつ訓練する必要があります。この世のすべては、その中を生きながらも、(すべてを)見破り、乗り越えなければなりません。さもなければ、このような警覚がなければ、すぐに惑わされ、心はまだ縛り付けられる状態に陥ってしまいます。

生命はこのような幻の種であり、次々と次のものを作り続けます。この業力(ごうりき)は、いつもあなたの頭の中にあって離れることはありません。「五蘊」(ごうん)の色、受、想、行、識「すなわち、物質的、身体的なものとしての色蘊(しきうん)、感覚作用としての受蘊、表象作用としての想蘊、意志・欲求などの心作用としての行蘊(ぎょううん)、対象を識別する作用としての識蘊」は、様々な縁に引かれ絡み合い、三界「さんがい一切衆生(しゅじょう)が、生まれ、また死んで往来する世界。欲界・色界・無色界の三つの世界」六道「ろくどう、生死を繰り返す迷いの世界。地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道」内で輪廻転生し、流浪し続け、苦しみを経験します。

では、このような現状を変えるにはどうすればいいでしょうか?

簡単に言えば、私たちの「心」の立場、または習慣的な思考の方向を変えることです。一つは外を見るもので、もう一つは内(内心)を見るものです。「内観」「ないかん、内省して自己の仏性・仏身などを観じること。観心(かんじん)」は、方向を変えることで、これは些細なことのように思えるかもしれませんが、結果は全く異なり、乃至は世界を変える力があるかもしれません。

内省的な人は、覚者(かくしゃ)です。外からではなく、内心から真理を探す人です。仏教のすべての教えと訓練は、一つの目標に向かっています。内心へ心性「しんしょ仏語。不変な心の本性。すべての人間が生まれながらにもっている本性」を見れば、生命の真相を悟るのを助け、そして不生不滅を見出すのです。

私たちが境遇(思いがけない諸事情、出来事)に遭遇したとき、そこに我見(がけん、自分だけの狭くかたよった意見や見方)や我執(がしゅう、自己中心の狭い考え)がありますか。

例えば、鏡の前に立つと、「漢人が来たら漢人が映り、胡人が来たら胡人が映る」というように、本当の修行ができていれば我見がなくなります。逆に、本気にしてそれが真実だと思ってしまうのは、自分が真実だと執着しているからです。「私は真実であり、衆生は真実であり、業力は真実だ」と思っていれば我執になります。これは正見(しょうけん)を持っていないことです。

常に「私」としての慈しみの心を調整し、同時に空(くう)の本性を持たなければなりません。空の本性こそが仏国土(ぶっこくど、諸仏それぞれの浄土のこと)に通じるものです。我見(がけん、自分の存在に対する執着)、人見(にんけん、他人に対する執着)、衆生見(しゅじょうけん、すべての生き物に対する執着)があれば、対立が生じます。境遇(思いがけない諸事情、出来事)に直面したとき、すぐに仏法で自分を済度します。外在はすべて試練であり、あなたの修行が真か偽りかをチェックします。

如来の真実の意味を理解することは重要です。

昔は境界(きょうがい、報いとして得られた境遇)に戸惑われ、振り回されていたのですが、今は境遇(きょうぐう)が来るとすぐに自分自身の心の働きや状態を顧みて、返照(へんしょう、真実の自己に照らして内省すること)。

これが阿弥陀仏であり、無量光無量寿です。私たち銘々の覚性は、即ち無量光無量寿です。極楽世界に往生(おうじょう、生まれ変わり)し、阿弥陀仏が迎えに来るのも、これに頼っています。

阿弥陀仏は、このように修行し、成し遂げて、その後衆生を救うために誓いを立て、私たちをも成し遂げさせるようにします。そして、私たちの「因」としての心は、仏果(ぶっか、仏の境地)の心に入り、これを頼りにして往生します。もしこの「覚」が迷ってしまうと、阿弥陀仏もあなたを救うことはできません。

我々は自ら心を清めるだけでなく、また仏陀の誓願の果としての境地に往生するのも願い求めなければなりません。

私たちの因としての「心」はとても脆いものです!

仏は功徳が大なる完成し、福と智慧が両方具わっています。私たちの業障は山のように高く、『地蔵経』には「業力は非常に大きく、須弥山(しゅみせん)をも凌ぐほど高く、大海よりも深い。聖道(しょうどう)(を妨げることができる」とあります。形があれば、宇宙全体も収容できません。

だから、自分の心をしっかり覚えておく必要があります。同時に、仏と私たちの心は毫厘(ごうり)も離れていません。そうすれば、仏が成し遂げられた果の境地の心は、あなたの心と通じ合い、心と心が融合することで、仏と感応することができます。


または、私たちの生命や人格の中で良いものを膨らませ、それを極めることで成仏するとも言えます。


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修行とは、一滴の水から始まり、徐々に小川になり、私たちの善根(ぜんこん、良い報いを受ける原因となるおこない)が小川になり、それを清く守り、次第に大川、大河となり、最後果てしがなく広々とした青い法性(ほっしょう、宇宙万物の共有する不変・平等無差別な本体。あらゆる存在の本来の真実なるありかた。仏の真理。真如。実相)の大海に流れ込むことです。そうすれば、仏と出会うことができます。


そのとき、あなたも祖師のように自由自在にすることができます。


沩山霊祐禅師(ウエイシャン リョウユウ)はこう仰いました。「老僧は五百年後に、山下(さんか、山の麓)にある人家で生まれ変わり、一匹の水牛になるよ。」


ある祖師はこう仰いました。「来生(らいしょう)は、私は鬼道(きどう)に行くよ」


地蔵菩薩は仰いました。「地獄が空っぽになるまで、私は成仏しない。私は地獄に行く。」


では、質問ですが、これらは、何に頼るのでしょうか?


菩薩道を歩み(実践し)、衆生の招かざる友となるには、豊富な積み重ねが必要です。長年の蓄積の末に、簡潔に成果を発揮します。


これらはすべて、私たちが今この瞬間、少しずつ、点々と修行を積み重ねることから来たのです。この「因」を間違えないでください。私たちの今の目の前にある「覚、かく」、この心は成仏することができます。


成仏する前に、果の境地の仏が私たちを救ってくださるのです。もし仏菩薩が私たちを救てくれなければ、仏教の一文字さえも知ることも聞くこともできません。


あなたが持っている僅かな悟りでも、仏菩薩の慈悲の現れから来たのです。私たちのすべての修行は、果の境地の仏陀を離れてはなりません。離れると、傲慢で狂気になり、もの(魔)につかれ、魅せられ、偏ってしまいます。


この仕事は誰も代わってはくれません。自分で修行していくしかありません。まるで水を飲むように、冷たさや温かさは自分だけが知るというものです。だから、自分でしっかり把握し、常に心を守らなければなりません。


阿弥陀仏!






日语朗诵:

 蒋雨 

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日语翻译:

圆明老师


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