成道需要大因缘

2025-07-21 09:01:00 发布: 人气:21



成道需要大因缘

成道(じょうどう)は大なる因縁が必要です










善知识是大因缘

善智識(ぜんちしき)は大なる因縁であります











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善知识是大因缘,若复说言:

“一阐提人能生善根,

生善根已相续不断得阿耨多罗三藐三菩提,

故言一阐提得阿耨多罗三藐三菩提。”

当知是人不谤三宝。


善智識(ぜんちしき)は大なる因縁であります。もし「一闡提(いっせんだい、(梵)icchantikaの音写。断善根(だんぜんこん)・信不具足(しんふぐそく)と訳す。仏法を信じることなく、成仏の素質を欠く者。)の人間も善根(ぜんこん)を生み出すことができ、善根が生じた後も途絶えることなく、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたら‐さんみゃく‐さんぼだい(梵)anuttara samyak saṃbodhiの音写。無上正等覚などと訳す。仏語。仏の悟り。一切の真理をあまねく知った最上の智慧(ちえ)。真理を悟った境地。)を得る。だから、一闡提は阿耨多羅三藐三菩提を得る」と言うなら、その人は三宝を誹謗していないと知っておくべきです。


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《大般涅槃经》“一阐提”能够成佛的因缘是什么,作为一个佛教的修行者来说,在现实中,懊恼就是懊恼,法喜就是法喜,它是不一样的。


『大般涅槃経』によると、「一闡提」(いっせんだい)が仏陀となる因縁とは何でしょうか。仏教の修行者にとって、現実において、懊悩(おうのう)は懊悩であり、法喜(ほうき)は法喜であり、それは異なるものであります。


从现代心理学的能量级别来说,懊恼这种情绪的能量级别是很低的,欢喜、布施、宽容这种情绪的能量级别就很高,到了智慧的状态,那就是一种更高级别的能量了。


現代心理学におけるエネルギーのレベルから言えば、懊悩という感情のエネルギーのレベルは非常に低いです。歓喜(かんき)、布施(ふせ)、寛容といった感情のエネルギーのレベルはとても高く、智慧の状態に達すると、それはさらにハイレベルのエネルギーとなります。


所以,我们不能简单地把懊恼跟智慧划上等号,两者有着天壤之别。我们痛苦、懊恼的时候是真的痛不欲生;予人欢喜、智慧的时候,就犹如天堂一样地幸福。这是完全不一样的。


したがって、懊悩と智慧を簡単に等号で結ぶことはできません。両者は雲泥(うんでい)の差の違いがあります。私たちは苦しみ、懊悩に陥るとき、本当に悲しくてたまらなく死にたいと思うほどですが、でも他人に喜びや智慧を与えるとき、それはまるで天国(てんごく)のような幸せになります。これは全く異なるものです。


就像贫穷的人跟富贵的人是不一样的。尤其在商业社会,贫穷的人除了外在财富的贫穷,有可能身体也生病,满脸憔悴,精神也没有力量,思维也没有力量;大富大贵的人不单在物质上可以随意驾驭,有可能身体也好,满面红光,思维敏捷。但是同样作为人来说,贫贱的人是人,富贵的人也是人。


まるで貧しい人と裕福な人が違うことと同じようです。特にビジネス社会においては、貧しい人は外的(がいてき)な富が不足しているだけでなく、、また身体が病(や)んでおり、顔色が憔悴して、精神力もなく、思考にも力がないかもしれません。一方で、大富豪は物質的な豊かさを自在に操り、身体が健康で、顔が赤らんで、思考も鋭敏(えいびん)だというケースがあるかもしれません。しかし、同じ人間として見れば、貧しい人も人間であり、裕福な人も人間であります。


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众生跟佛之间的关系也是这样的,众生迷惑造业,无量劫来所造恶业,若有形象,尽虚空亦不能纳受;佛是尽虚空遍法界福德圆满,是阿耨多罗三藐三菩提。虽然众生跟佛的福慧资粮不一样,但众生的佛性跟佛的佛性是一样的。实际上这种“一样”非常笼统,如果仅仅是传递这个概念,这是有一点不负责任的。


衆生と仏様との関係も同様です。衆生は迷いの中で業を造り、無量劫にわたって造った悪業(あくごう)は、形があれば虚空(こくう)全体も収容できないほどです。仏様は虚空全体、法界の果てに至るまで福德が行きわたり、阿耨多羅三藐三菩提((あのくたら‐さんみゃく‐さんぼだい(梵)anuttara samyak saṃbodhiの音写。無上正等覚などと訳す。仏語。仏の悟り。一切の真理をあまねく知った最上の智慧(ちえ)。真理を悟った境地。)です。衆生と仏様との福と智慧の資糧は異なるが、衆生の仏性(ぶっしょう)は仏の仏性とは同じです。実際、この「同じ」というのは非常に漠然としており、ただこの概念だけを伝えるだけでは、ちょっと無責任だと言えます。


为什么中观说“非一非异”?穷人跟富人是一样的吗?不一样。所以这个“非一非异”,讲一样、讲不一样,都是戏论。为什么中观说“远离四边八戏”?这是一种戏论,讲到底了还是一种假设。从哲学上来说,我们中国有一个很有名的辩论,叫“白马非马”。


なぜ中観(ちゅうがん)は「非一非異」(同一でもなく相異でもない)と言うのでしょうか?貧しい人と裕福な人は同じなのでしょうか?違います。だから、この「非一非異」というのは、同じだと言っても、違うと言っても、どちらも虚妄(きょもう)の議論になります。なぜ中観は「四辺八戲(しへんはちぎ、四つの偏執と八つの虚仮の議論)を離れる」と言うのでしょうか?これは虚妄の議論であり、突き詰めて言えば、一種の仮定に過ぎないからです。哲学的には、中国には有名な議論がありますが、それは「白馬は馬に非ず」というものです。

(翻訳注:四辺八戲(しへんはちぎ):四辺(四つの偏執)1. 有辺(うへん):万物が実在し、永遠不変であると執着すること。2. 無辺(むへん):万物が全く存在しないと執着すること。3. 亦有亦無辺(またありまたなし辺):万物が「ある」と「ない」両方だと執着すること。4. 非有非無辺(あらずあらざる辺):万物が「ある」でも「ない」でもないと執着すること。八戯(八つの虚仮の議論)1. 生(しょう):万物が本当に生じるとする見解。2. 滅(めつ):万物が本当に滅するとする見解。3. 常(じょう):万物が永遠不変だとする見解。4. 断(だん):万物が完全に断絶され、継続性がないとする見解。5. 一(いち):万物が完全に同一で、差異がないとする見解。6. 異(い):万物が完全不同で、関連性がないとする見解。7. 来(らい):万物が他所から来るとする見解。8. 去(きょ):万物が他所へ行くとする見解。)





注:“白马非马”是指中国逻辑学家公孙龙提出的一个逻辑问题,出自《公孙龙子·白马论》。


注:「白馬非馬(白馬は馬に非ず)」とは、中国の論理学者・公孫龍が提唱した論理問題で、『公孫龍子・白馬論』から出る。




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如果我们有智慧的话,就不能简单地下一个定义——有佛性就是佛,这是不一定的。佛陀在《涅槃经》里就讲到这个,乃至对于一阐提来说,不能下定论说他一定不能成佛;也不能下定论说有佛性就一定成佛。


もし私たちは智慧があれば、次のように簡単に結論を出すことができません。仏性があれば仏様であると簡単に定義することはできません。必ずしもそうとは限りません。仏陀は『涅槃経』でこのことを述べており、あえて一闡提(いっせんだい)についても、絶対に仏陀になれないと決めつけることはできないし、仏性があれば絶対に仏陀になるとも決めつけることはできません。


当中是需要因缘的,一阐提能够成佛的最大因缘,就是三宝住世,有懂得佛法、传承佛法的善知识还在,所以“善知识者,是大因缘”。


その中には因縁が必要だからです。一闡提(いっせんだい)が成仏できる最大の因縁は、三宝(さんぼう)が世に存在していることと、仏法を理解でき、仏法の由緒正しい伝承を受け継いでいる善知識がまだ世の中にいることです。だから「善知識とは、大きな因縁である」と言えます。







《大般涅槃经》



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善男子,若有心口异想异说,言一阐提得阿耨多罗三藐三菩提者,当知是人谤佛法僧;若人心口异想异说,言一阐提不得阿耨多罗三藐三菩提,是人亦名谤佛法僧。

善男子,若有说言:“一阐提等未生善法便得阿耨多罗三藐三菩提。”是人亦名谤佛法僧;若复有言:“一阐提人舍一阐提,于异身中得阿耨多罗三藐三菩提。”是人亦名谤佛法僧。

若复说言:“一阐提人能生善根,生善根已相续不断得阿耨多罗三藐三菩提,故言一阐提得阿耨多罗三藐三菩提。”当知是人不谤三宝。








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依教奉行,是很关键的前提和因缘,有一个成就者就跟弟子们讲过,如果你们把我观想成是佛菩萨化现,做这样的清净观对于你们的修行来说固然是好的,但是,如果你们忽略了我是刻苦求法、修法而成就的,那你们对佛法是诽谤的。因为最重要的,我是一个极大恶业的人,通过法来忏悔、净化了我的罪业,然后得到了佛法的受用,这是真实的。


教わった通りに実行することは、非常に重要な前提と因縁です。ある成就者が弟子たちに次のように語ったことがあります。「もし皆さんが、私を仏様、菩薩の化身として観想(かんそう)すれば、確かにこのような清らかな観想が、みなさんの修行のためになり、良いことですが、しかし、私が苦労を厭わず、骨身(ほねみ)を惜しまず求法(ぐほう)して修行していたから成就したことを無視するなら、それは皆さんが仏法に対する誹謗になります。なぜなら、最も重要なことは、私が非常に重い悪業を犯した人間であり、法を通してその罪業(ざいごう)を懺悔し、浄化し、そして仏法の御利益を得たことが事実だからです。」


所以,佛法的修学,对世间轮回要去观察,对佛法的次第也要建立,乃至概念上的建立都要知道,要有个理路。就像我们要出门去一个地方,会先查询地图,路线弄清楚了,心里就有了个概念。如果是更聪明的人,他会再找一个熟悉这条路或走过这条路的人确认一下。


したがって、仏法の学修(がくしゅう)においては、世間の輪廻も観察し、仏法の段階も確立し、概念的な理解を持つ必要もあります。その筋道が必要です。まるでどこかに旅立つ前に、まず地図を調べ、ルートを確認し、心にイメージを形成すると同じようなことです。もっと賢い人は、その道に詳しい人や歩いたことのある人にも再確認してもらうでしょう。


《地藏经》里讲到,地藏菩萨先把众生的恶业背过来,帮他减轻,或者全部给他拿掉,还要用自己的功德力把他从困境中拉上来。同时也要交代两句,说你有什么智慧、力量走这条路啊?千万不要自以为是,自己的业力把自己陷在这种困境里,而是要跟着佛法的指导走。但是众生就记住了吗?还是“旋出旋入”啊!还是以自我为中心,刚强难化。


『地蔵経』には、地蔵菩薩がまず衆生の悪業を背負い、軽減させたり、あるいはすべて取り除いたりし、さらに自分の功徳力を用いて彼らを苦境から引き上げることについて述べられています。同時に、「あなたにはこの道を歩むための知恵や力があるのか、決して自惚れ(うぬぼ)てはいけませんよ。自分の業力(ごうりき)の故に自分をこのような苦境に陥れたので、仏法のご指導に従って歩むべきだ」と教え諭しました。しかし、衆生たちはそれを覚えているでしょうか。彼らは(地獄を)出たとたんにまたその中に陥ったもので、依然として自己中心的で、頑固で感化しにくいのです。


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每个生命到这个世界上都是不一样的,有的人两三岁就会想人所想,有的人活到八十岁了还是以自我为中心。我们中国人说“三岁看八十”,一个人三岁就能看出他的秉性和天赋。人三十岁之前都是享受过去世的福报,三十岁之后受自己此生的影响就比较深了,如果一个人没有很高的天赋,需要后天来成就,这是很难的。除非他自己也意识到了,主动恶补先天的不足。


この世界に生まれてくる生命はそれぞれ異なります。ある人は、まだ2、3歳なのに他人の立場になって思いやりをもって物事を考え始めますが、ある人は80歳になってもまだ自己中心的です。私たち中国人は「3歳で80歳のことがわかる」と言います。つまり、3歳の時点でその人の性分(しょうぶん)や才能が見えてくるのです。人間は、30歳までは全部前世の福の報いを享受し、30歳以降になると現世(げんせ)の行為から受ける影響が大きいです。もしある人が高い才能を持っていない場合、後天的(こうてんてき)な努力でそれを補うことは非常に難しいことです。ただし、本人が自覚し、積極的に短時間で先天的な不足を大量に補充することができる場合は別です。


我们现在到三宝地来亲近三宝,就是恶补先天的不足。在这一点上,佛陀是肯定的。我师父常常重复佛陀的这句话:“是人本不善,亲近于善人,后必成善人,善名遍天下。”我们本来不是一个解脱的人,也不是圣人,但是我们亲近于圣人、亲近于解脱,解脱的概念就会种到我们的心里,解脱的行为就会行持起来,后必得解脱的果实。这就是因缘的重要性。


私たちが今、三宝(さんぼう)の地に来て三宝に親しむことは、先天的な不足を大量に補うということになるのです。この点については、仏陀も認めて肯定しています。私の師はよく仏陀のこの言葉を繰り返します。「もともと善良ではない人間が、善人(ぜんにん)に親しむと、やがて善人となり、その善良の名誉は天下に広がるでしょう」と。私たちはもともと解脱した人間ではなく、聖人でもありませんが、聖人や解脱に親しむことで、解脱の概念が私たちの心に種を蒔きます。すると、解脱の行為が実践できるようになり、最終的に解脱が実るに違いないです。これが因縁の重要性であります。



三参法師



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