HEART
生命就是道场
生命は道場なのである。
生活本身就是我们修行的道场。
生活そのものは我々が修行する道場なのである。
不是说到哪去找,找慧日寺来、找师父来。当然我们在一起来研讨、交流,更加地明了我们的修行道路,也是有一种共同的愿望,通过这种氛围来给我们修行路上加油,像加油站一样。但是真正的道场在哪?你的生命就是你的道场,你的时间就是你的道场。
本当の意味の道場はどこにあるのか。あなたの生命はあなたの道場であり、あなたの時間はあなたの道場なのである。
我们坐在这个地方,大致上现在看到的是一个三维空间,可以一起挤在这个三维空间里,但是我们修行要去实践。
我们的身体就是我们的道场。除了身体,我们的时间也是我们的道场。我们的时间里面,三心——过去心、现在心、未来心,这就是一个第四维空间。我们在这个时间的瀑布面前不迷失,因为“应无所住而生其心”。
我々の身体は我々の道場である。身体のほかに、我々の時間も我々の道場である。我々の時間の中に、『三心』、すなわち『過去の心』、『現在の心』、『未来の心』、これは四次元目の空間の一つである。私たちはこの時間の滝の前で迷うことはない。なぜかというと、『何らかの所にも止まらないで(執着せずに)その(本来の澄み切った清浄な)心を生じさせるのだ』からだ。
并不仅仅说,我看了这个东西、我执着它,我住于这个东西了、住于这个色了。住于这个“色生心”,这个叫色法,住于色心、身心,在住于这个的时候,就有时间点。
在这个物质、色法的三维空间里面的时候,同时你也会迷失在四维里。这两天我们在念《金刚经》,要去领会不住色生心、不住色声香味触法。住色生心就是住色迷心,要住色的话你的心就迷掉了。不住色声香味触法而迷其心,应无所住而生其心。生起我们的明觉之心,这就是皈依我们的佛性,而不是皈依外在的。皈依我们的佛性就是道的体,万法之根源。有道的体之后,你循着这个道而起心动念,这就是德。所以道为体、德为用,这样的生命自然不会违背本性。
この物質、色法(しきほう、物質的存在の総称。一切の存在するもののうち、空間的占有性のあるもの。)の三次元の空間の中にいる時と同時に、あなたは四次元にも迷ってしまう。この二三日、私たちは『金剛般若波羅蜜経』を唱えていますが、その経文の『色法に止まらないでその(本来の清浄な)心を生じさせる』、『色声香味触法に止まらないこと』ということを理解しておかなければならない。色法に執着して心を起こすということは、色法に縛られ心を迷わせるということになる。もし色法に止まったらあなたの心は迷ってしまう。色声香味触法にとらわれずに心を迷わせないのだ。何らかの所にも止まらないで(執着しない)その(本来の清らかな)心を生じさせるのだ。我々の明朗で覚醒の心を目覚めさせるのだ。これはすなわち、我々の仏性に帰依するのだ。外在的なものに帰依するわけではない。我々の仏性に帰依すれば道の本体になり、万法まんぼう(物質的、精神的なすべての存在)の源になる。道の本体を得られてから、この『道』に従って発心したり念頭を動かしたりすれば『徳』になる。だから、「道」は本体で、『徳』はその効用である。このような生命は、自然に本性ほんしょうに逆らわなくなる。
图为毗卢遮那佛
这个也叫大戒,我们真正的菩提心戒,就指的这个戒。是法身佛——毗卢遮那佛,于千叶宝莲之上。为什么叫千叶宝莲?如果你色法不住,那色法就是你的一叶莲花。你住于色,这个色就变成你的染污;你不住于色,这个色就变成你的庄严。色声香味触法,岂止色声香味触法?随随处处你都不住,随随处处都是庄严,随随处处都是清净莲花。
これは『大戒』とも呼ばれ、我々の本当の菩提心の戒は即ちこの「大戒」のことを指しているのである。即ち、法身仏(ほっしんぶつ)、毘盧遮那仏びるしゃなぶつ
が千枚の花びらの宝蓮華の上に乗っていること。なぜ千枚の花びらの宝蓮華というのか。それは、もしあなたは色法に止まらなければ色法があなたの一枚の花びらの蓮華になるからだ。もしあなたはこの色法に止まってしまうと、この色法はあなたの汚れになるのだ。あなたは色法に止まらなければ(執着しないこと)この色法はあなたの荘厳そうごんになる。色声香味触法もそうである。色声香味触法どころか、いつでもどんな所にも止まらなければ、そこはあなたの荘厳しょうごんになるのだ。いつでもどんなところでも清らかな蓮華になる。
所以,用这个千叶宝莲来衬托祂、来比喻祂。其实毗卢遮那佛岂止是坐在千叶宝莲上?森罗万象皆是毗卢遮那佛的清净法身,皆是毗卢遮那佛的清净宝莲。一着就变迷掉了,变成染污法了,变有漏法了。如果不着一切都是清净的、都是无漏的、都是莲花。
所以,这个道,我们的佛性的体,本身就是清净无染的,在地狱分上不减一份、在诸佛身上不增一份。如果我们通达了这个体,就是清净法身的体。由清净法身的这个体而生出的。因为什么?一切众生皆同一体。我们看到众生这只是外相,业报不同但是本质一样,这叫同体的。不仅仅我们人跟人是同体,人跟狗、猪、猫、苍蝇、蚊子是同体。人跟山河大地都是同体,叫“无不从此法界流”。没有一个不是从这里面出来的,正报和依报的源是同源的,大乘的戒体就是从这里生出来的。
この『道』は、我々の仏性の本体であり、この本体自身は、清浄で汚れがない。地獄の場合においても一部減らされることもなく、諸仏においても一部増やすわけもない。もし我々はこの本体に通じれば、それは清浄な法身の本体になる。清浄な法身の本体から生み出されることになるのだ。なぜそうなるのだろうか。すべての衆生は、同体(同じ本体)であるからだ。私たちが見ている衆生は、ただの外見だけで、業報(業による報い)はそれぞれ異なるが、本質は同じである。これは『同体』という。人間同士だけでは同体(同じ本体)だとは限らない。人間は犬、豚、猫、ハエ、蚊とも同体である。
人間は山河、大地とも同体なのである。この法界以外のところから流れ出すものはない。法界ではないところから流れ出すものは一つもない。正報(しょうほう)と依報(えほう)の源は同源(どうげん)である。大乗の戒体はその中生み出されるのだ。
千百亿化身释迦牟尼佛,持心地法门,持着这个地,为众生、有缘众生而说《梵网经》,说大乘菩萨戒,一个行菩萨道的人,就是具有德的人。为什么具有德?衪自然符合这个道,衪的这个行为、语言、思想是符合道的,衪是不会去染污道体的,所以道是无为的。
何万何千億の化身のお釈迦牟尼仏は、心地(しんじ、心を大地に喩えている意味)法門を持っていて、この心の大地をもって、衆生に、ご縁のある衆生に『梵網経』を説法し、大乗の菩薩戒を説法した。菩薩道を実践している人は、徳のある人だ。なぜ徳があるかというと、彼は自然に道に敵い、彼の行為、お言葉、考え方(思想)は道(どう)に適っているからだ。彼は道の本体を汚すこともなく、だから道は無為(ぶい)なのである。
德在这个上面,也是不需要别人去控制,德是一个自觉的。道这个源泉如果被淤污了,这个德就开始迷失了。
这个时代我们大家学佛,多一个人学佛,多一个我们人类当中正义的力量;多一个人学佛,这个社会就多一份稳定的力量;多一个人学佛,就多一个人来继承华夏文明。整个人类文明,也都是源自于这个,所以佛教不仅仅对我们个人、对家庭、对社会,还承担了我们现在整个人类的命运。佛教兴盛,整个人类的文明就会提升,世界会稳定、和平;佛教衰落,那就是整个人类的危机。不仅仅如此,除了人类之外,地球上还有很多众生。
日语翻译:圆明老师