出离心,你真的修过吗?

2024-11-13 09:02:00 发布: 人气:7
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 出离心,你真的修过吗?

出離生死の心をほんとうに修練し実践したことがあるのか



出离心就是知道这个社会是假的,知道这个世界是假的,不执著它





01


有一个弟子非常虔诚的请教他的师父,最殊胜的法是什么?师父告诉他:“你会死的,我也会死的。”这就是最殊胜的法,就是最大的加持!为什么?这就是无常观啊,求了多少年法,最后这个师父就是这么对他说:你会死的,我也会死的;我会死的,你也会死的。你记住了,就这个!


所以,一个对无常没有深入修习的人,没有对苦、空、无常深入修习的人,没有对轮回产生厌离心,没有对六道产生恐惧心,对轮回没有产生恐怖心!没有恐怖心,也没有厌离心,哪里有出离心?没有出离心,你怎么见道啊?怎么见不生不灭啦?无量光无量寿。


したがって、無常を深く実践していない人、苦しみ、空(くう、万物はすべて因縁によって起こる仮の相で、実体がないということ)、無常を深く培っていない人は、輪廻を嫌悪(けんお)せず、六道を恐れず、輪廻を恐れることもありません。恐怖心も嫌悪な心を持つことなしには、出離生死の心があるわけもありません。出離生死の心がなければ、どうやって見道(けんどう、真理を知るための、煩悩に汚されることのない智慧を起こして、仏教の基本的真理である四諦を、知性的な理解ではなく直観的に明瞭に見る位。この位に入ると、凡夫から聖者に変わる)ができるのでしょうか。どうやって不生不滅(ふしょうふめつ)を見極めることができるのでしょうか。その無量光無量寿のことを。


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02


自私自利的众生他甚至以满足自己为快乐,他丝毫看不到众生的痛苦,这就是我们小时候看电影里的所谓的坏蛋,但是看这个世界好人少。坏蛋好人哪来的?修来的。因修行的人太少,世界真相就是这样。甚至这个好坏充遍我们的生活,有可能就是你的父母,有可能就是你的妻子先生,也可能是你的儿子女儿。甚至我们也会指望我的身体,指望我的感情,这都是泡沫,完全是泡沫,身体健康也是泡沫,所以后来就万般皆不去,唯有业随身,唯有十大阎王不相舍离,其它都不一定的。


所以,我们对这个五浊恶世真的要有一种出离心。出离了,像一个莲花一样,荷叶一样,淤泥当中茁壮的成长,这个很重要。怎么来完成生命的这个过程很重要的,没有这样一个出离心,不可能得到佛法利益的。没得到佛法的利益不可能反过头来“还来看世间,犹如梦中事。”反过来看这个世间的颠颠倒倒的这些迷惑众生,不可能对它生起猛烈的大悲心。 如果你同其腐朽,你跟它一起烂掉,所有佛法的功德利益都不可能有,所以我们佛教第一个就是出离心。出离了之后,自己已经达到安全的地方,《法华经》里说的,已经出来了,躺在地上,这时候牛车、羊车,才知道众生迷惑在什么地方,众生苦在什么地方,才能有救众生的心,看到众生才会生起悲悯心,你才会和众生不一般见识,才会产生大乘的功德性确实是这样,越来越是这样。


私たちはこの五濁(ごじょく)悪世(あくせ)に対して出離しようとする心が本当に必要なのです。出離ができたというのは、まるで蓮華のようで、その蓮の葉のように川底にたまった泥からすくすく成長してきたようであり、これは非常に重要です。そのような人生のプロセスをどうやって成し遂げるのかが非常に重要です。そのような出離の心がなければ、仏法の利益を得ることができません。仏法のご利益(りやく)を受けることができなければ、振り返って俗世間を見たらまるで夢の如しということになるのもありえません。そして、振り返ってこの世間の愚痴顛倒(ぐちてんとう)(煩悩のために誤った考えやありかたをすること)の衆生を見ても猛烈な大悲心を起こすのが不可能です。衆生がどこで迷ってしまっているのか、衆生の苦しみがどこにあるのかがわかってからはじめて、衆生を救おうとする心が生じてくるのです。そして衆生を見たら慈しみの心が生じて、世間の人々との見識も異なるようになり、大乗の功徳が生じてくるのです。



03


真正的出家,也不是说剃个光头,穿了衣服就是出家的。你对这个世界,有没有深入地去观察?你知道这个世界很苦吗?你知道生命很苦吗?你知道这些问题吗?有的人明明生活在苦当中,但是他不知道苦,处鲍室久而不知其臭,对不对?如果你不知道轮回苦,你怎么会有出离心呢?



04


你对这个三界没有出离心,就是穿了这个衣服剃了头,也不叫出家。反过来说,如果你真的有出离三界的心,就是不穿这个衣服不剃头,你已经选择了人生终极的目标,然后把人生的缘分变成终极的缘分,那你虽然是一个在家人,也叫出家。这种智慧很重要,没有生起这个智慧真的很可怜,芸芸众生活着也像草芥木灰一样啊。



05


我们学佛,小乘的先学起来,因为这是所有凡夫最对机的,最重要的,小乘的“根”没有,厌离心、出离心生不起来,“苦、空、无常”,这种没有坚固的“见”升起来,就是一个凡夫就是六道轮回里面一个种子,苦海当中的一个众生啊!以攀缘心来学法,这个法都成攀缘,这都是自己主观的,以攀缘心修,回过来还是成攀缘。


私たちは、仏陀に教わっているが、小乗から学び始めるのです。何故かというと、それはあらゆる凡人にもっともふさわしく、もっとも重要なのだからです。小乗の『根』がなければ、厭離(えんり)の心(汚れているこの世をいとい、離れる心)、出離生死の心が起こらないからです。『苦しみ、空、無常』といった確固たる見解が湧いてこなければ、まだ凡人なのだからです。外界(がいかい)の物事に思いを馳せる気持ち(外界(がいかい)の物事に対して追いかけたり執着する心)で修行したら、とうとうそれに執着し巻き込まれてしまいます。



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06


苦的法要多去研习,真正对这个世界的苦升起一个认知,用这个苦来对治我们每一个习气,这个“苦”用苦法来对治,然后让我们对习气,这种粗重的习气,坚固的习气,能够把它摧弱一点,然后有点像不想轮回的样子了,慢慢、慢慢这个心不着于外在的,也不着于内在了。有点像《遗教经》里面所讲的,不着两边,然后这个心回归于自己的纯然心地,这个时候,慢慢、慢慢再冲出“我执”的瀑流,然后这个时候才能够“见”到阿赖耶识,阿赖耶含藏,这个含藏里面就是很多恶习,然后又能翻出来,忏悔掉。


苦しみのダルマ(ダルマは、サンスクリット語で「法」を表す言葉)を、私たちはもっと研鑽し学ぶのです。本当にこの世界の苦しみに対する認識を育成して持ち続けなければなりません。この苦しみを生かして私たちのあらゆる悪い癖を正します。この世界の苦しみを、苦しみに応じた方法で治めます。そして、我々の悪い癖、強い悪習、頑固で良くない癖を少し弱め、輪廻したくない気配を見せてくれたようになり、徐々に、ゆっくりと、この心は外在にも執着せず、内在にも執着しなくなります。『遺教経』に説かれているように、両面に執着することなく、その後、この心は、自分自身の純粋な心地(しんじ)(心のこと)に立ち返ります。このとき、ゆっくりとゆっくりと「我執(がしゅう)」の滝の流れから抜け出すことができます。この時になって初めて、阿頼耶識(あらやしき)、阿頼耶識の中身を『見る』ことができるようになるのです。阿頼耶識の中身には数多くの悪い悪習が含まれており、それを明らかにして悔(く)い改(あらた)めることができます。



07


我们在世间也看到,有的人前世是很虔诚的一个佛教徒,功德都会做,但是他没有一个坚定的信心要解脱,下世就很大的福报。一有大的福报就怎么样?忘掉以前的事了,贡高我慢,甚至看到出家人也看不起。要什么有什么,哪里把你出家人放在眼里,我比你佛教大,有的福报大的人就会这样想。这样想、这样做了的,就堕落下去。世间在造恶业的人,他有能力造恶业,因为前世他有善根他修了福报,这世忘掉了,然后就依着福报做坏事,堕落得更惨。所以一个人不能没有出离心,对大家来说最基本的要有出离心。经典里说如果忘失菩提心,纵行善法亦同魔业,对你的解脱道上会有磨难会有障碍。我们在座的至少不能够没有出离心,这非常的重要。


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08


心依于法,法依于贫,贫依于死,死依于干枯的沟壑。依于尸体,尸体躺在干干的沟里面一样,你不可能去做到,甚至我们想看到这样的机会都很少。现在人一死了就丢到太平间,就放到殡仪馆去了。但是我们可以这样观想,这样观想的时候,人的攀缘心,人的这个傲慢心,人的虚荣心就荡然无存了。这时候无量光无量寿的境界就会现前,就会得这样一点功德,我们本自佛性的功德,是这样而已。


心は法(仏の教え)に依存(いそん)し、法は貧困に依存し、貧困は死に依存し、死は干上(ひあ)がった渓谷に依存します。そして、死体に依存し、死体は涸れた渓谷に横たわっていると同じようです。あなたは自分ではそうはできませんし、乃至私たちはそんな場面を見たくても見られる可能性は極めて低いです。このように視覚化もできたように瞑想する時、人間が外在に思いを馳せる心(執着心、外在に向かって蔓延(はびこ)る心)、人間の傲慢心(ごうまんしん)、人間の虚栄心(きょえいしん)がすっかり消え去って足跡(あしあと)もなくなります。こうして、無量光、無量寿の境地が現れ、そのようなささやかな功徳が得られるのです。それが私たちの本来具わっている仏性(ぶっしょう)の功徳です。そういう状態になります。


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你知道这个世界的苦吗?知道生灭的苦吗?没有出离心,剃了头也不是出家。你有了出离心,为了圆满人生的缘分,修行改变人生变成终极目标,在人群中,你也如出家人。没有升起这个智慧,如草芥一样,是很可悲的。


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佛陀在经典里说,我们现在这个地球,是住当中第九小劫的减劫,现在我们人平均寿命七十岁左右。现在怎么样?五浊。哪五浊啊?见浊、命浊、烦恼浊、众生浊、劫浊。为什么叫劫浊?就因为我们现在属于减劫,人寿只有七十岁左右。  


这些浊,你们在生活中有没有感受到?你有没有发现你就生活在这样一个五浊恶世当中,这个恶你有没有体验到?五浊,你有没有去体验?要去体验的,你体验到了才会生起出离心哦!真的哦,六道轮回是自已稀里糊涂造的,现在我要求觉悟,我要走一个正确的生命道路,我要把握自己生命的方面,我要做命运的主人,我不能做业力的囚犯,我要跳出三界外,早日出狱,三界是牢狱。你要去认识。不认识,每天你就过着五浊恶世的生活,你能不能跳出来?不会的。你过着五浊恶世的生活还是这样,而且越来越不如。



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我们读《心经》,观音菩萨很慈悲,说“照见五蕴皆空,度一切苦厄。”那反过来说,你连苦都不知道了,你怎么照见一切皆空啊?你愿不愿意照见一切皆空啊?如果你感觉到苦了,你想解脱苦了,佛可以告诉你,原来一切法无自性,那这个时候你可以跳出来。但是平时我们连苦都不知道,佛告诉我们极乐世界,跟这个世界相对的是五浊恶世,你想去极乐世界是空头说的,因为这个五浊恶世,你根本没有认清它,你很喜欢这个五浊恶世,你念那句南无阿弥陀佛是假的。



私たちが『般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみつたしんぎょう)』を読んでわかるように、観音菩薩はとても慈悲深く、「照見(しょうけん)五蘊皆空、度一切苦厄(どいっさいくやく)」。(観自在菩薩は、深遠なる「智慧の完成」の修行を行じていたとき、五つの要素(五蘊)がある、と見られた。そしてそれらは本性が空であると見抜かれた。こうして、あらゆる苦しみとわざわい、即ち苦厄(くやく)、を乗り越えた。《「蘊」は、梵skandhaの訳。五つの積集の意》仏語。存在を構成する五つの要素。すなわち、物質的、身体的なものとしての色蘊(しきうん)、感覚作用としての受蘊、表象作用としての想蘊、意志・欲求などの心作用としての行蘊(ぎょううん)、対象を識別する作用としての識蘊。五陰(ごおん)。」と説かれています。逆に言えば、もしあなたは苦しみさえ知らなければ、どうやってすべてを照らして、その本質が空(くう)であることを見抜くことができるのですか。すべてを照らして、その本質が空(くう)になってほしいのですか。もしあなたが苦しみを感じて、そしてその苦しみから解脱しようと思ったら、仏はあなたに、諸法に自性(じしょう、物それ自体の独自の本性、もの・ことが常に同一性と固有性とを保ち続け、それ自身で存在するという本体、もしくは独立し孤立している実体のこと)がないと教えることができます。この時あなたは(苦境を)抜け出すことができます。しかし、もし普段私達は苦さえ知らなければ、仏は私達に極楽世界のことを教えて、その極楽世界と正反対なのは五濁悪世(ごじょくあくせ)であると教えてくれても、あなたは極楽世界に行きたいというのが口先だけのことになるのです。なぜかと言うと、この五濁悪世を、あなたはまだ全然それを見極めていないからです。あなたはこの五濁悪世(いじょくあくよ)にとても強い愛着を持っていれば、あなたは『南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)』を唱えても嘘つきになるのです。


----三参法师  



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日文翻译:圆明老师

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