2025
很多人问我:师父,我应该怎么修行?
我就回答他:“喝水时老老实实喝水,
吃饭时老老实实吃饭。”
生活中,时时处处,不偏不倚,不起妄执,
内心明晰,定力具足,这就是修行。
喝水,吃饭,当你安住其中,
你的每一口饭每一口水都可以自利利人。
我们小时候读书时,有一篇课文,说有一个小朋友发愿要做神箭手,后来找到一位名师,拜师学艺。但师父收下他后,既不给箭,也不给弓,就吊下来一根线,让他看。一看就是三年,等到他把这根线看得像房梁一样粗时,搭弓射箭,百发百中。
三年时间,师父真的是让他看线吗?是看心哪!看你有没有本事把心思定在那根线上。
中国传统的茶道也是如此,在茶水入喉之前,点香、赏茶、温壶、装茶、润茶……程序很复杂,目的就是帮助我们将心安定下来,心定才能品出真味。在佛教界,更是将喝茶提升到等觉的境界——“翠竹黄花,无非清净法身”,茶汤茶色茶香,哪一个不是佛清净平等光明的显发?
这种安定的力量是可以用来摄受众生的。马胜比丘是佛陀最初度化的五比丘之一,他威仪端正。有一天,他在王舍城内乞食,徐步安详,清净庄严,舍利弗远远看到,心生欢喜的同时就被自然地摄受了。所以,当我们靠近一个内心很平静很祥和的人时,我们也会享受到那份平静与祥和,而这份感受又会成为我们生命中非常宝贵的经验,它储存在那里,发着光。
我师父当年到普陀山着手修复工作时,普陀山是很荒凉的,古树参天,大蛇出没。我师父住的房子,又小又破,有一天,他伸手到柜子上拿钥匙,一摸,凉凉的,麻麻的,一条蛇盘在那里。师父看看它,算了算了,你就在上面好好休息吧。从此,师父与蛇同室。我师父晚上是不倒单的,那我们想想看,我们在打坐时,有一条蛇就在边上,换了你会不会怕?
这就是修行人,修戒生定,因定发慧,无怖畏,大慈悲。八万四千行中,不离正觉,不离善愿,生命始终处在宁静安详之中,处在佛性的光明清凉之中。
如果没有戒,没有定,人就会心猿意马,不成方圆。在稀里糊涂的生活里,不但没有办法开发生命正面的功用,还会因为无明造下一大堆的恶业。
安住在戒的清凉境中,生命就会有香气。就像生长在热带的沉香树,它能在风雨雷电的侵袭或人为的破坏下,自我修复,安定生长。当它倒下后,在别人眼里,不过是在水里泥里慢慢腐烂,但几百几千年一过,再把它捞出来,它在自我修复过程中分泌出的油脂已经凝结成为沉香。一段朽木,却在泥淖之中结出一段“戒定真香”,我们人活了一辈子,有可能活不过一棵树啊!
日
文
翻
译
大勢の人が私にこのように聞いています。「師父、わたしはどうやって修行すればいいのでしょうか?」
私はこう答えます。「水を飲む時、飾り気がなくありのままで水を飲めばいい。食事をする時、偽りがなく真面目に食事をすればいい。」
日常生活の中で、いつでもどこでも、どちらにも偏らず、妄執(もうしゅう)を起こさず、心を明晰に保ち、定力を備えること。これこそが修行になります。水を飲むこと、食事を取ること、その中に専念し安住(心を煩わされることもなく、そこに落ち着いて安らぐ)すれば、一口のご飯にしても、一口の水にしても、自分のためにも他人のためにもなります。
私の幼い頃の教科書にこんな文章がありました。ある少年が超人的なアーチャー(射手、いて)になろうと志を立てました。そして、有名な師匠を探し、その師について弟子入りし芸を学ぶことにしました。しかし、師は彼を受け入れた後、弓も矢も与えず、ただ糸を一本吊るしただけで、それを見させました。その糸を3年間も見続けて、やがてその糸が梁(うつばり)のように太く見えるようになった時、百発百中の腕前を身につけたのです。
この三年間、師が教えたのは「糸を見る」ことではなく「心を見る」ことでした。一つの対象(その糸)に心を安定させ続ける力を養う修行だったのです。
中国の伝統的な茶道も同じです。お茶を飲む前に、線香を焚き(静かで優雅な雰囲気を作る)、茶葉の形や色合い、香りを楽しみ、急須(きゅうす)を温め(熱湯を急須にいれて半分まで満たし、そのあと急須の中の水を茶筅に捨てる。急須内の異臭を取り除き、同時に急須を余熱することで、茶の香りを揮発させ、茶の葉がお湯を注がれた時に香りと味をより引き出せるようにする)、茶葉を入れ(茶の葉の量と分布に注意し、通常は急須の半分以上にします。手で茶の葉を掴むのは避け、手の匂いや雑味が混入しないようにします)、お茶を潤します(熱湯を急須に入れて満たし、竹串で急須の上の泡を掻きとり、その後、茶水を茶筅に捨てる。茶葉の表面の埃や不純物を洗い流し、同時に茶葉を覚醒させ、茶葉が正式に淹れる時によりよく咲き誇り、お茶の味をよりよく引き出せるようにします)... この複雑なプロセスは心を安定させるのに役立ち、心が落ち着いてからこそお茶の真味しんみを味わえるからです。仏教ではさらに茶を飲むことを「等覚(とうかく、修行が満ちて、正覚(しょうがく)の仏と等しくなった位。菩薩の最高 位。等正覚。)の境地」までに高めます。「青竹や菊の花は、いずれも清浄な法身以外のものにならない」と説かれるように、茶湯の色や香り全てが仏の清浄で平等な光明の現れではないでしょうか。
この安定した力は、衆生を引き寄せるために使うことができます。仏陀最初の弟子である大迦葉尊者(だいかしょうそんじゃ)は、威厳と慈悲に満ちた姿で知られていました。ある日、王舎城(おうしゃじょう)で托鉢(たくはつ)する彼の姿は、ゆったりとした歩きで威厳を保ち、清らかで荘厳な気配を放っていました。遠くから見つめていた舎利弗(しゃりふつ)は、その姿に心を奪われると同時に、自然と法の道理を悟りました。ですから、私たちが心の平静で穏やかな人間の近くにいるとき、私たちはその平静と穏やかさを享受することができます。そして、その感覚は私たちの人生にとって非常に貴重な経験となり、そこに保存され、光を放ちます。
普陀山(ふださん)で寺院修復を始めた当時、師匠は荒れ果てた山に立ち向かわざるを得なかったです。杉の木が生い茂って、大きな蛇が出ると言われる場所でした。師匠が住んだ寮は、狭くて古びた部屋でした。ある日、棚の上に置かれた鍵を取ろうと手を伸ばすと…冷たく痺れるような感触でした。目を上げれば、蛇が巻き付いていたんです。師は「お前はそこでゆっくり休むとよい」と告げ、それからというもの、師は蛇と同じ部屋で暮らしたのです。師は夜通し坐禅するのです。私たちが想像してみると、座禅を組んでいる横に蛇がいるのです。あなただったら怖くないでしょうか。
これが修行者の姿です。戒を修めて定を生じ、定によって慧を発するのです。一切の恐怖を超越し、大慈悲を具えるのです。八万四千の行いの中にあっても正覚と善願を離れず、生命が常に静寂で安祥(あんじょう)な状態にあり、いつも仏性の光明と清涼の中に安住するのです。
戒がなく定がなければ、心は猿や馬のように制御できず、規則もできません。混沌とした生活の中で命のポジティブな働きを果たせず、かえって無明による悪業を積むばかりです。
戒の清涼な境地に安住すれば、生命は香気を放ちます。熱帯に育つ沈香木のように、風雨や雷あるいは人為的に破壊されても自ら修復し、落ち着いて成長していけるのです。倒れた後、他人の目にはただの腐りゆく材木に見えても、数百年、数千年の時を経て掘り起こされると、自己修復の過程で分泌した樹脂が沈香として結晶化しているのです。朽ちた木さえも、泥の中で「戒定真香(かいじょうしんこう 戒と禅定の真実の香り)」を生み出します。私たち人間の一生は、一本の木にも及ばないかもしれないのです。
日语翻译:芸儿姑娘
日语校对:圆明老师
日语朗诵:妙叶